Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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シンギュラリティは近い[エッセンス版] 人類が生命を超越するとき 2016/4/22 レイ・カーツワイル (著) アマゾンレビュー:決定版 カーツワイル・ユニテリアン・自己実現型予言
永澤 護·2017年10月16日月曜日

カーツワイルは、シンギュラリティにいたっても、この私の現象的意識は乗り越えまたは消去不可能だと認めている。すると、究極的にはこの私の意識が宇宙全体に偏在することを主張することになるカーツワイルの宇宙は、ライプニッツのモナドロジーの世界に近いものになる。予定調和的技術進化のビジョンだ。
 人工汎用知能開発のグノーシス主義またはユニテリアン主義を基盤としたシンギュラリティ・プロジェクトへの回収というテーマに関して、私は友人と対話してきた。論点は、もしカーツワイルおよび彼の周辺人脈がユニテリアン主義者なのであれば、それは人類史上最大のリスクになりかねないということである。この動向に「カリフォルニアイデオロギー」といった批判だけで対処するのは無理がある。これは人類史の覇権を巡る地政学的な問題でもあるからだ。つまり、シンギュラリティの予言は、カーツワイルおよびその周辺の開発集団(より広くは人類史の覇権を狙う勢力)の自己実現型予言でもあるのだ。
つまり、そうした人間たちにとって、「AIが人類を支配するといって煽るまたは煽られる連中は馬鹿」といった批判は無効であり意味を成さない。逆に「微笑ましい素朴な連中だね」とニヤリとされて終わるのが落ちだろうということである。
附記1
カーツワイル自身の信仰告白(本書のソース本『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル NHK出版 2007年から引用)。
ホロコーストからのがれてきたわたしの両親は、いずれも芸術家で、子どもには、実際的で視野の広い宗教教育を施したいと考えた。それでわたしは、ユニテリアン派教会の教えを受けることになった。(略)「真理に至る道はたくさんある」という考え方がその中心にあるのだ。世界中の宗教の伝統には共通するところがたくさんあるが、一致しないところも明らかにあることに当然気付いた。おおもとの真実は奥が深くて、見かけの矛盾を超えることができるのだ(略)。
附記2
私の友人との対話の一部。
以下転載開始
私:なぜ中国とだけはウィンウィンになれないのか?
そこに一神教カルテル問題が絡んできます。そして中国による人類史上初の人工汎用知能開発成功とそれによる単独覇権の可能性への危惧という一神教カルテルにとって(人類全体にとっても)最も根本的な問題です。真に究極的な単独覇権(Singleton)は、いずれかの国家・組織集団あるいはそれらの同盟により占有された汎用性AI の覇権をはるかに超えた、極めて強い人工汎用知能すなわちスーパーインテリジェンスそれ自体によるSingletonになるはずです。
なお、これまで継続してオックスフォードを拠点に実に真剣にその可能性が吟味されている上記仮説を一笑に付すことは問題です。従来型のあらゆるイデオロギー批判が無効になる可能性があるからです。
ニック・ボストロム のいう「スーパーインテリジェンス」は、もし誕生するとすれば、再帰的に自己更新するAIとして誕生し自己を再創造し続けます。従って、現在我々人間が人工知能について語っているほぼ全てが妄想に終わる可能性が高い。
人工汎用知能が自律的な自己創造=爆発的な進化プロセスに突入してからスーパーインテリジェンスレベルに到達するまでの時間が例えばミリセカンド単位なのか数十時間単位なのか我々人間には予測不可能です。そもそもそれは外在的に計測できる時間ではありません。それは、我々人間が経験することも了解することも不可能なのです。
以上転載終了


アマゾンレビュー:「来るべきコミュニズム 」を待ち望むジジェク
永澤 護·2019年5月25日土曜日
ジジェク自身は否定するかもしれないが、「グローバル資本主義」を独立した「歴史の最終的審級」にしている前提から、彼はそれとの二項対立図式(グローバル資本主義VSコミュニズム)から逃れられないように見える。そのためトランプもルペンも「ポピュリズム」もその他現存する政治的事象はすべてその図式のどちらか(つまりここではグローバル資本主義の内部)に配分されてしまう。またこの図式はグローバル資本主義の次がこれも最終的に「目指されるべき(良い)段階」として配置されることにつながる。歴史の「悪い最終的審級」としての「グローバル資本主義」と「良い最終的審級」としての「(来るべき)コミュニズム」(「希望の契機=時期」)の二項対立図式の提示ということだ。むしろ「グローバル資本主義」は現在より劣悪な別の位相へと移行しつつあるという現実的な可能性も考慮すべきではないだろうか。
ちなみにハイデガーの言葉「人間はただ"準備できている"という力だけを持つ。あるいは来るべきものを待ち望むということそれ自体を耕す力だけを持つ。(一部意訳)」がある。彼にとって《来るべき》という形を取る時制は最後まで特権的なものであった。ドゥルーズの「来るべき民衆」やデリダの「来るべき民主主義」も同じ分類になる。ハイデガーが最終的に行き着いたのは、「人間は待ち望むことだけができる」というエレメント、言い換えれば「ただ神だけが我々を救う」というエレメントであった。(『シュピーゲル』のインタビュー「ただ神だけが我々を救う」は彼の意向に従って彼の死後直ぐの1977年に『シュピーゲル』に掲載された。)
ジジェクも同じではないだろうか?
ただ「「あらゆる全体主義にあてはまる教訓(中略)それはすなわち、外部の敵に対する攻撃はおそかれはやかれ、つねに内部の敵に対する攻撃に転化する、ということである。」「主観的な「裏切り」について語ることは客観的な袋小路をうやむやにしてしまう。」といった指摘は現在のこの国の状況に照らしても妥当する普遍性を持っている。


「マインドフルネス運動」の一般向けマニフェストーー本来的には、古東氏の言う「U字構造の行法」とは、今ここでの日々の生活の実践そのものとしての現実であり、その「外(部)」は存在しない。
永澤 護·2019年3月8日金曜日
イントロダクション
本レビューに対するコメントと思われるものが新規レビューに記載されていた(誤解であったなら無視していただいて構わない)ので、それに対するごく簡潔な私のコメントを以下に転載する。
以下転載開始
「やはり「最終解答」「最終解決」がキーワードなのですね。あまり「最終」ということにこだわると大きなリスクがあると思われます。かの有名なかたも「最終解脱者」を名乗っていました。また私のコメントはいかなる意味でもなんらかの「党派」を特権化していません。その対極です。そのことはレビューのなかでわざわざ断っています。そもそも道元が『正法眼蔵』「仏教」巻において「禅宗」を初めとするあらゆる「宗派」(「党派」)を激烈に否定しています。(ちなみに「禅宗」という「宗派」は存在しません。参考:https://www.asahi.com/articles/ASM2P622DM2PPLZB015.html )またこれは一般論ですが、自らのまたは自らの関与する何らかのポジションを「最終~」と自ら語る者は古今東西「党派的人間」の典型だという事実があります。「運動(体)」の避け難い成り行きもあるとは思いますが。 なお、「最終解決」という言葉の使用は(少なくてもこの国以外の)公的空間においては極めてセンシティブな反応を呼び寄せることになります。(cf. https://www.bbc.com/japanese/45192287)
参考①
「涅槃は、探し求めるものではない。なぜなら、涅槃は私たち自身だからである。波がすでに水であるように──。波に、水を探す必要はない。波は水そのものなのだから。

 目覚めることが重要です。爆弾のありよう、不正義のありよう、兵器のありよう、私たち自身の存在のありようが、不可分です。これが行動する仏教の真の意味です。(略)私たちの日常生活、ものの飲み方、何を食べるかが、世界の政治状況と関わっているはずです。」
ーーティク・ナット・ハン」

参考②
「修行の目的とは何か――毎日が初めてというこの限りない人生に、仏祖の教えによって自己を発明する。この無限に限りはない。そこにおいて前例のない自己を発明するのが工夫である。「仏道とは何か?――仏に成ることだ」――そんなことはウソじゃ。仏道とは、仏道をただ行ずることである。修行してさとりをひらくのではなく、「修行」がさとりなのである。」

「変わりづめの自己、そのときそのときが完全である。これが絵に描いたようなものであればよいけれども、水に映った月である。動きづめで瞬間ぎりしかない真実である。それで取りそこないがちである。その瞬間が一遍ポッキリの我らの人生、絶体絶命、今日ぎりの一遍ポッキリ。その瞬間を取りそこなったら、一生のお終いである。明日まで生きてるかどうか分からぬ。昨日はどこへ行ったか分からぬ。今日本当のことをやる。骨身に応えて足大地を踏まなければならぬ。」

「無我なら芝居の役割と同じこと、何でもええ。その割り当てられた役で自己を発明する。その割り当てられた役目を妄想なく、ただそれに成りきる。堂頭は堂頭に成りきる、小僧は小僧に成りきる。これを自己に親しむという。」
「自分が死ぬと世界が死に、世界が滅する。オレが生まれたときにこの世界が生まれたのだ。するとお前が死んでもまだこの世界は残っているのではないかという。いや、オレの分はもう死んだというのだね。つまり人人(にんにん)はそのままで何の不足もない完全無欠なものである。」
「われわれは手もと足もと三尺の所で働いておるが、しかも尽天尽地に働いておるのである。雀が空を飛ぶのでさえも空の全分(ママ)を飛ぶのである。これを現成公案 という。きわまりのない空間、きわまりないのない時間を、今ここで生きるのである。」
「魚が「水を全部泳いでしまった」ということはない。また鳥が「もう空を飛んでしまった」ということもない。しかし魚は水の全部を泳ぎ、鳥は空の全部を飛ぶ。めだかでも、鯨でも水の全体を泳いでおるーー容積の問題ではなく、質の問題である。」
――以上澤木興道の言葉

③「「仏性」とは刻々に自己自身が行じていく動詞的なもの(…‥)いまここ自らが自らを行ずる道」 内山興正の言葉

④「心の平静さは吐く息が終わったその向こうにある。だから、あなたがただ滑らかに息を吐いていくとき、あなたは心の完全で完璧な平静さの中に入りつつある。」 鈴木俊隆の言葉
以上転載終了
なお、上記澤木興道の引用に対する附記だが、澤木興道が「自己の発明」を語るのは、あらゆる刹那=瞬間が始まりも終わりもない『自己=存在=時間=行』の「起滅」としてあるという根底的なフレームワークに由来している。結局このレビュアーの「最終解決」「最終解答」という言葉とパラダイムを導き出したソースの古東哲明氏の「終極地点」という言葉とパラダイムがこのレビュアーの言葉とパラダイムが導き出されるための(必ずしも十分条件ではなかったとしても)必要条件だったということである。従って私自身は下記レビューで 「古東氏の言う「U字構造の行法」(98頁)が終わりなき「修証一等」 の過程であるならば」と一見肯定的に書いてはいるが、古東哲明氏の「U字構造」というパラダイムに意味があるとは考えていない。
古東哲明氏による、「マインドフルネス」と区別された「心身脱落(向こうへの渡岸)」という解釈は誤りだと言える。ゲーデルの「不完全性定理の誤用」にも似た「ワンネス系の」者たちによる「心身脱落の誤用」を本来のあり方と取り違えている。氏が「マインドフルネス」を「終極地点」とするところが上記誤解の発生地点だと思われる。つまり「ワンネス系の発想」を氏も共有しているのではないか? 道元の「心身脱落」は終わりなき無窮の行である。より正確に言い換えれば、もし道元の言う「心身脱落」を「向こうへの渡岸」と同一の含意としてイコールに結合するならばその「心身脱落」解釈はまさに古東氏が本書で批判する「ワンネス系の解釈」であり「明確に間違い」ということである。ちなみに「心身脱落(向こうへの渡岸)」という引用符内の括弧で等置した形の記述は本書74頁における氏自身の記述である。 

参考:道元『学道用心集』第三則から引用
(以下試訳)迷いのただなかで覚醒の力を持つ実践を行うとき、覚醒(悟り)は私が認識する以前に実現していることを知らねばならない。そのとき対象化しようとする言葉は、そうした手だて(船筏)がいくらあるかに見えても、結局は昨日の夢のようなものであり、私はそれらの言葉と絡みついた古い習慣としての理解を切り捨てることになる。この覚醒は仏によって生じるのではなく、この私の行為が機に応じてあらゆるレベルであらゆるものと縁起を形成する行のプロセスとして生じる。

原文:「知るべし行を迷中に立てて、証を覚前に獲ることを。時に始めて船筏の昨夢なるを知りて、永く藤蛇の旧見を断ず。是れ仏の強為に非ず、機の周旋せしむる所なり。」

 ここでは「機」は、行のプロセス(実践行為)そのものとしての修行者と縁起を形成するファクターすなわち機縁(チャンス)の二重の意味を持つ。つまり修行者=行のプロセスと縁起のプロセスは一体不可分である。

氏は「真空妙有」をキーワードにして究極レベルとしての「マインドフルネス」と等置しているが、あまりそれをやると結局『大乗起信論 』と変わらなくならないだろうか? 『大乗起信論』は不朽の価値があると思うが、近年中国産の偽書だということがほぼ確定している。(参考:大竹晋『大乗起信論成立問題の研究:『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク』)

 しかし、もちろん単に上述の話で終わりではないはずだ。古東氏の言う「U字構造の行法」(98頁)が終わりなき「修証一等」 の過程であるならば。今更私が言うまでもないが、古東氏による本書のキーワードである「U字構造の行法」の最重要の起源はハイデガーだろう。すなわちメタフィジカルな「故郷」からの離脱(「離郷」)と回帰(「帰郷」)の運動だ。これに何も異論はない。無窮の「行法」であるならばということである。「(U字)構造」はハイデガー由来だが「行法」という言葉が含意する「今ここで法を行ずること」(cf.「刻々に自己自身が行じていく動詞的なもの(---)いまここ自らが自らを行ずる道」:内山興正)という場面もまたそうであるかどうかはここでは断定できない。もちろん《存在論的構造》としてはそれも ハイデガーは記述していると言えるだろうが。とはいえ一般的な観測としては「マインドフルネス」という言葉にまつわる社会的諸事象は、澤木興道、鈴木俊隆、内山興正等が仏陀と菩提達磨、道元といった仏祖たちから継承・実践した道から決定的な形で外れてしまったのではないかと強く感じる。
 誤解を予防しておきたいが、もちろん古東哲明氏や共著者の藤田一照氏の日々の実践が上記の道から外れているなどと言っているのではない。日々その道を継承しようとする厳しい努力を積み重ねているだろう。しかしその継続の消息を言葉のみで伝えることには限界のない、そして避け難い困難さがある。

 つまり古東氏の言う「U字構造の行法」とは、今ここでの日々の生活の実践そのものとしての現実であり、その「外(部)」は存在しない。

 「マインドフルネス」の説明における氏の単独記述部分に対する補足だが、概してあまりに多くの哲学者の名前を並列化して詰め込みすぎの印象がある。これからマインドフルネスを本格的に広めていく際の間口を最大限広げておこうという意図だろうか。ほぼ同じ枠の記述箇所にヘーゲル、スピノザ、ニーチェ、ドゥルーズ、メイヤスー、新実在論まで登場している。また古東氏は、鈴木俊隆、澤木興道、内山興正と鈴木大拙の解消不可能な差異が存在するにもかかわらず鈴木大拙を持ち出しているが内山興正は鈴木大拙の「エクスタシーとしての禅」を全く認めていない。つまり鈴木大拙を大変厳しく自らの立ち位置と対極にあるものとして批判しているのだ。(典拠:The Zen Teaching of Homeless Kodo ,Shohaku Okumura Kosho Uchiyama https://bit.ly/2XLhMKz) 誤解を予防しておきたいが、以上は道元や内山興正をいささかも「特権化」するものではない。例えば、親鸞は「 無念無想」「無我無心」「日本的霊性」の類を同様に峻拒するだろう。道元にとっては鈴木大拙が称揚するような「無念無想 」「無我無心」といった類いはすべて論外の「外道(の考え)」である。正法眼蔵「三十七品菩提分法」「龍吟」その他で語られている。

 「真空妙有」としての「マインドフルネス」を「終極地点」とするベクトルは「ワンネス系」「日本的霊性」空海の「即身成仏」「自然法爾」「天台本覚」等々様々なものを同時に呼び寄せることになる。本書は対談部分を含めて「マインドフルネス運動」の「一般向けマニフェスト」の性格を持つため、記述様式がわかりやすくなっている。従って、これに対してダイレクトに「哲学的考究・分析」を加えるのは適当ではない。言い換えれば本書に対するこれ迄の全てのコメントはダイレクトに哲学的な考究・分析を加えるものではない。そもそもこれだけ多くの哲学者が同時かつほぼ同じ枠において言及されているのでそれは不可能である。


マルクス・ガブリエル レビュー 「超越論的議論の場」あるいは「哲学という営みの場」そのものへの問い、主体/主観(性)への問いの排除の帰結
永澤 護·2018年11月15日木曜日·1分前表示16件

2018年1月26日(2019/1/04改稿)
以前一度レビューを投稿したが、彼のその他の理論的主著・論文・対談等をその後読んだことを受けていくつかの問題点を記述しておきたい。まず先のレビューの論点は以下である。

本書においてマルクスガブリエルは、「<世界>は存在しない。あるいは、<意味>の場はあらゆる諸世界の発生に先立つ」と語っている。以上が本書の最も簡潔な要約であるが、他方「<経験>はあらゆる<意味>の場の発生に先立つ。そのつどの<経験>がなければいかなる<意味>も生まれない」といえる。
これに関連して、近著「デジタルネイチャー」(p.21) において、落合陽一は「〈フレーム〉とは、母集団からデータを切り出す行為そのものを指す」と述べている。 「フレーム問題」とはしばしば語られる言葉である。〈フレーム〉が「行為そのものであること」は、意外に理解されていない事実かもしれないが、この行為こそ、経験としての実践=行為だと言えるだろう。マルクス・ガブリエルが言う「意味の場」の「場」が上記「フレーム」であり、「フレーム」こそ「経験」としての「実践=行為」なのである。

以上である。

次に、今年の10/18に私の友人(以下T)と本書を巡ってチャットによる対話をしたので、以下に導入として転載する(一部改変)。

T:全然違う話題ですが、世界は存在しないって命題は、部分は無限である全体を包含し得ないというカルヴァン派の認識論の焼き直しに思うのですが、誤読ですか?
全体が無限なら、部分は無限ではないので…という論法です。

私:マルクス・ガブリエルは非常に古典的な善きゲルマン知識人なのでカルヴァン派の枠内でしょうね。

T:なぜ話題なのでしょう?
どこか新しいところがある?
いま『神話・狂気・哄笑』を読んでます。

私:あれが一番まともです。

T:ほぼ読み終わったのですが、新しさを感じず困惑しています。誤読したのかと思って。

私:彼はあれだけでいいでしょう。

T:欧米がフィーバーしてるのかと。
彼の言う部分って、結局は「格付け」のことじゃん? ってこれ誤読なんですかね。

私:その格付けをうまくやりたいのですが失敗しているのです。

T:格付けの前提としての名付け。「命名」によって格付けが可能になる。

私:誤読じゃないです。しかしその「十分自覚されていない意図」は失敗している意図にとどまっている。

T:「名付けイコール部分」の前提に気がついてないから失敗してるんじゃなかろうかと読みました。

私:前提に対してナイーブ過ぎるようです。
いいんじゃね?という感じで。善きゲルマン知識人の所以です。

T:部分を解放せよ!ってのが感想です。

私:綱覇さんのですか?

T:そうです。名付けを拒否することで部分は解放され、無限である全体と部分とのアキレス亀チキンレースはまやかしと化す。
ルター派っぽいかなぁ。

私:当然そういう路線になるでしょう。

上記友人の指摘は大変重要なものだと思われる。
つまり、「命名」によって「格付け」が可能になるがその「名付けイコール部分」の前提に気がついてない(自覚していない)から失敗してるという指摘である。

以上を背景として、以下に本書及びその他の理論的主著・論文・対談等をその後読んだことを受けて主な問題点を指摘する。

科学者の野村泰紀との対談を読むと、マルクス・ガブリエルは科学主義に対する堅固な防御壁を持っていないと思われる。その主な理由は、マルクス・ガブリエルは主体性あるいは主観性の概念を初めから切り捨てており、科学に対する上での枢要な問いである「私」「われわれ」を巡る問いを排除しているからだ。「超越論的議論の場」あるいは「哲学という営みの場」そのものへの問い、主体/主観(性)への問いを初めから排除しているということだ。結局「科学主義」は防御できず主体/主観の問いは排除、結果としての政治的発言は 極めて無難かつ常識的でハーバーマスより後退している。EUあるいはグローバリズムに対するスタンスはジジェクやネグリ等と同じカテゴリーに分類可能だ。デカルトやカントの方がよほどラディカルだったと言える。マルクス・ガブリエルの「科学主義」批判は、非常に意固地な印象を与えるが、かなりの程度において彼自身の「哲学主義」の裏返しなのだろう。

マルクス・ガブリエルが語る《意味の場》は日常的な言語ゲームにおいて《世界》と呼ばれてきた/いるものに概ね相当する。その意味では《世界》はマルクスガブリエル的に見てそれこそが存在するものである。「超越論的議論の場」あるいは「哲学という営みの場」そのものへの問い、主体/主観(性)への問いを初めから排除している以上、「著者のスタンスからは「なぜ世界は存在しないのか」と一つの哲学書で包括的に語ることも、本来不可能なはずの、しかし避けがたく語られてしまうような一種のジョークにならざるを得ない。
なお、「世界の非存在」を証明しようとしたマルクス・ガブリエルの有意義な失敗は「時間の非実在性」を証明しようとしたマクタガートの有意義な失敗と類比的である。彼らはともに時間と世界の存在のために不可欠な「矛盾」を摘出したのだから。この「非存在」としての「世界」あるいは「非実在」としての「時間」という<場所>を、西田幾多郎は「絶対無の場所」と名付けたのだろう。永井均が「西田幾多郎 言語、貨幣、時計の成立の謎へ」で書いているが、「絶対無の場所とは、私、世界はなぜ存在するのかといった問いに対する究極の答え」なのである。永井均が長らく問い続けている「私」「今」「世界」への問いをマルクス・ガブリエルは決して認めることはできないだろう。もし認めるなら彼のロジック「なぜ世界は存在しないのか 」は瓦解することになる。


#享楽社会論 :現代 #ラカン 派の展開 タイトル:「ラカン派社会論」の成立可能性への問いに関わるいくつかのコメント
永澤 護·2018年5月5日土曜日

 副題は「現代ラカン派の展開」でありこれがメインテーマといえるだろう。ただしここでの「ラカン派」は狭義の臨床領域における「ラカン派」を意味するというよりむしろ(もちろん実質的にはオーバーラップする部分があるが)「ラカンをベースに社会理論を展開する派閥」を意味する。つまり本書を読むことで各々の読者は「ラカン派社会論」の可能性について(それが最終的なものかどうかは別として)かなり決定的な判断を下すことができるだろうということだ。
 上記の定義だと、例えばドゥルーズ=ガタリもこの広義の「ラカン派」に属することになる。すなわち、ジジェクなどは言うまでもなく、いわゆる(かつての)「現代フランス思想」という分類枠に入れられたもののほとんどがこの「ラカン派」に属するともいえるのだ。彼女彼らはみな「ラカン」の周りを周回しながら「社会論」を展開していた星座であった。
 だが「ラカン自身の精神分析の実践と広義のラカン派(社会論)の間には断層あるいは断裂があるのではないか?」という問いが本書を読むことで生まれてしまうのも事実である。「ラカン自身の精神分析の実践」と「広義のラカン派(社会論)」というそもそもカテゴリーの異なる二つのものを(カテゴリーミステイク的に)並列的に比べるような愚かしいことは止めろ、とこの問いを切り捨てない限りは。しかしそれならこの切捨てを命じる者自身が自己矛盾的にカテゴリーミステイクを犯していることになる。私の友人はこの断層または断裂に無自覚な人間たちこそ愚かしいと切り捨てている。
 どちらが正しいかはここでは断定できないが、それぞれの読者に問いは投げ返されるだろう。
 以上が本書を読むことで示唆される問題圏の提示である。
   ラカンの特に後期の解釈に関してはほぼ全面的にミレールに依拠している。でなければ誰にとってもおよそラカンの読解は不可能だからなのかもしれないが、結果として本書の「社会論」としての論点はジジェクが長年繰り返し言ってきたことに綺麗に回収される。その点では非常な既視感に囚われる。弟8章読了時点ではジジェク/ミレール ですでに語り尽くされていることの過激さを削いだ要約ノートのようでもある。p.239 第8章最後の一文は立木康介の結論の引き写しに等しい(「自らの享楽とつき合っていく」)。そして残る二章は概ねラカニアンレフトの議論の要約である。本書が大変クリアに諸論点をまとめてくれたおかげで、本書以後「ラカン派社会論」をどのように構築しようとしても、一種作法に則った模倣的反復以上の作業にはなり得ないと思われる。しかしこのコメントは、むしろ「ジジェク/ミレール以後」と言うべきかもしれないが。
 とはいえこれは批判ではない。むしろ肯定である。「肯定」とは、特に最終章に関してである。注目点は、本書が「「身体の出来事」としての《反復的な享楽》」に強く焦点を当てていることである。以下広くこの点に関わる論点、そしてそこからさらに展開し得る論点をいくつか記述する。
1.「<一者>的な享楽のシニフィアン」の作動に関して、スーフィズム、バガヴァッド・ギーター、聖フランチェスコ、タントラ仏教(後期密教)などといったシニフィアンの作動様式への回収を防ぐバリアが必要になる。
2.「意味の領野」を基底的レベルとして提示するマルクス・ガブリエルとの関連で言えば、この「「身体の出来事」としての《反復的な享楽》」は「意味」に先立つ。それは《経験》である。
3.本書で言及されている「世界史、自然史」または自然的世界における「因果性の切れ目」として解釈された千葉雅也の言う非意味的切断はラカン解釈の上で混乱を招くものである。ミレールの解釈するラカンにおける「ひとつの身体の出来事」としての非意味的切断はそもそも「因果性の切れ目」ではなくそれとは別の次元である。
4.「資本主義のディスクール」のもとで「一種の強制された消費を繰り返すことになる」(p.92)という図式は前提ではなくむしろその妥当性または終焉の可能性が問われ得る。
5.ラカンが「ラカン派(ミレール)」にほぼ完全に取り込まれた(る)なら、ラカンは今後、いよいよ既視感に満ちた理論と実践のある種のアマルガムへと終息していくだろう。
『享楽社会論』読了後の結論は、《享楽社会論》あるいは《ラカン派社会論》というパラダイムは限りなく成立困難であるということである。ラカンの精神分析の実践と「社会論」との間の断層または断裂は限りなく解消困難なのではないか。それはそれで仕方ない、あるいは「善い」ことなのかもしれないが、「ラカン派社会論」の方向で(少なくてもそれのみで)「資本のディスクール」を内的に瓦解させる可能性に関してはかなり懐疑的にならざるを得ない。
 なお、本書に限らず到るところで見られる地政学的な読解図式の問題があるが(つまり批判している相手であるはずのグローバリズム/資本のディスクール側がインプリメントしているステレオタイプな図式に取り込まれている部分がある、ただし必ずしも「従軍慰安婦問題」に関してではない)ここでは割愛する。


有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論 #人口汎用知能 ( #AGI )の誕生が現実性を帯びるとスポットライトはまず #ニーチェ から #カント に移動す...
永澤 護·2018年2月11日日曜日·3分表示16件

3.0人口汎用知能 (AGI) の誕生が現実性を帯びるとスポットライトはまずニーチェからカントに移動する。 カントから観れば、むしろメイヤスーこそが「人間主義」
投稿者 永澤 護 投稿日 2018/2/11
形式: 単行本  英訳版:After Finitude: An Essay on the Necessity of Contingency 2010/1/5 を2012/5/18に注文して読んだが、他のレビュアーの方の非常に良質なレビュー(グレアム・ハーマンに対するものを含めて)にある「カントから再び「デカルト」へ=非人間的(あるいは「超人間」的)存在論=「人間サイズ」の相関主義を乗り越えようという意図」というフレームワークと密接にリンクしかつまた別の見方もあり得るのではないかという指摘だけしておきたい。もちろんこれら両者の観点が必ずしも二項対立的な哲学的論点にならないかもしれないという留保をしたうえでそれらレビューに謝するという意味もあるのだと受け取っていただけるとありがたい。
 言い換えれば、以下はメイヤスーの「思弁的実在論」が通常受容者たちに理解されているフレームワークに関するコメントを行うことで、メイヤスーの本著作の理解にごく僅少ながら寄与しようとするものである(もちろんこれは社交辞令であり実際はそうした自負はないのだが)。
 とはいえ、私はメイヤスーをほとんど評価していないということをまず言わなければならない。
「超越論的主体が生じるための非-経験的条件とはそれが身体を持つということである」というメイヤスーの主張だが、メイヤスー の「思弁的身体」は、彼の言説システムにおいてあえて持ち出す意味がない整合性を持たないものになっている。例えるなら、メイヤスーの言説システム(といえるのかどうかは別として)は、[1] オッカム的な神の絶対的意志を想起させるカトリック的な一神教システムと [2] 数学的(ピタゴラス的)実在論を基盤とした偽装的な(つまり「哲学」衣装をまとった)科学主義の奇妙な混合物だろう。つまり「超越論的主体が生じるための非-経験的条件とはそれが身体を持つということである」という メイヤスー の主張は、彼のシステムを前提してしまうと、それに取って付けたようなアリバイ的な文句であるかまたはそのシステムとは整合しない余計な夾雑物になる。
いずれにしても、あたかも「哲学・思想」領域におけるバチカンの偽装エージェントにすら見えるメイヤスー は、この国における次の流行りの最有力候補として安易に輸入したが定着に失敗した顕著な事例である。地政学的マーケティングの失敗事例と言えるだろう。
 なお、私はデカルトの「省察」(特に第三省察)から決定的なインパクトを受けている。かなり以前から「現代思想」(ヘーゲル、ニーチェを含む)またはある時期以降の哲学と思想のお約束であった「デカルト批判」のほぼ全ては、実はデカルトの深みに到達しない単なる表層的言辞に過ぎなかったのではないか?という疑いは吟味に値すると思っている。その実に勝手な言い分の補足として、参考までに、私が25歳時に後の大学院の指導教官(メルロ・ポンティ、デカルト、ベルクソンなど近世哲学・現象学の研究者 實川敏夫氏)に提出した「第三省察」を巡る小論の結論部分を以下に転載する。
以下転載開始
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 ところで、この差異の明晰判明な知覚は、私にとって常に確実であり、また他のどの様なものでもあり得ないということから完全に規定されている。すなわち、この差異の規定は、《常に不変であること》を含んでいる。それでは、この差異の規定は、「私の内」と「私の外」という二つの領域の差異の規定と重なり合うだろうか。
 すでに見たように、「私の内」とは、それが現在という経験の場である限りにおいて、その経験(明晰判明な知覚)が無際限に反復される領域であった。例えば、私がその確実性をその都度確信しつつ数を数えていくことが出来るのはこの領域においてである。だが、この現在の内に留まる限り、私はこの計算を導く何らかの演算規則が《常に不変であること》を真に確信することが出来ない。私の内に存在し得ないのはこの《常に不変であること》あるいは永遠である。だが、この《常に不変であること》あるいは永遠は、「私の外に在る」と言えるだろうか? 
 注目すべきことに、この点について彼は次のように述べている。
「そこで私は、私が何らかの任意の仕方でもって思考ないしは知性によって、私を超えている或る完全性に触れるという、単にそれだけのことから、すなわち、数を数えていくということを通じてすべての数の内最大の数に辿り着くことは私にはできないと認知し、かくてそのことから、数を数えるという視点において私の力を超え出る何ものかがあると気づくという、単にそれだけのことから、次のことが必然的に結論されると主張します。すなわちそれは、無限の数が存在するということではまったくなく、また無限の数が、(……)矛盾を含むということでもなくて、私が、私によっていつか思考されるであろういかなる数よりも一層大きな数が思考可能であると把握するそうした力を、私自身からではなくて、私よりも一層完全な《何か或るもの》から受け取ったということなのである、と」
 この様に、<私>はあの絶対的な差異の知覚を、そしてそうした知覚を成し得る力を、《或る他のもの》から受け取ったのである。そこには、私に決定的に先立つ差異の受容あるいは触発があった。もし、私が、「私の内」と「私の外」という二つの領域の差異を規定しようとするならば、この受容或いは触発の「形」を確定する必要があるだろう。だが、この差異の常に確実な、あるいは不変の規定は、少なくとも「私の内」においては不可能であるだろう。そして「私の外」においても。この絶対的な差異は、《或る他のもの》との出逢いがそこで誕生する、「私の内」でも「私の外」でもない或る時空の彼方の場所で与えられる――すなわち、触れられる――のではないか。言い換えれば、それは、或る<他者>の誕生と共に、その都度やって来る一つの試練あるいは訓練として与えられる。それが一体「いつ」なのか、そして「どこ」なのか、私はそのことを知ることが決して出来ないのだとしても。」
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以上転載終了  
 つまり第一のポイントは、デカルトこそが有限的なコギトにとっての「偶然性の必然性」という意味における「実在」の絶対的現実(性)を明瞭に語りつくしているということである。
 その上でだが、カントに関して、予告した以下の論点のみを簡単に指摘しておきたい。
 現在はニーチェが流行っているが、人口汎用知能 (AGI) の誕生が現実性を帯びるとスポットライトはまずニーチェからカントに移動することになると思われる。なぜなら、カントはいまだ人間的なものであるニーチェの超人を超えた(たとえAGIが出現したとしてもそれすらを含む概念である)「有限的知的存在者一般」について語っていたからだ。 他のレビュワーから引用すれば、カントから観れば、むしろメイヤスーこそが「人間(あるいは意識一般)というものを極めて狭く捉えた形においての別な形態の「人間主義」」だといえるのだ。
そしてまだ人類がAGIの「コントロール問題」に格闘していられる間は倫理的価値観のプログラミング問題を基盤として依然としてカントの定言命法の有効性妥当性は問われるであろうし現にカント的方法論と類似した方法が最先端の研究仮説(例「CEV:Humanity's "Coherent Extraporated Volition":Yudkowsky 我々人類の整合性のある外挿的意志」:ユドカウスキー)として真剣に検討されている。
 いずれにしても、ニーチェのいう「超人」の誕生という物語は、少なくても「ツァラトゥストラはこう語った」において語られた形においてはマシンスーパーインテリジェンスとして誕生する極めて強い人工知能とは無関係なものになるだろう。それは生体工学的介入による過渡期のプロセス例えば「全能エミュレーション」(全脳シミュレーション)を基盤としたごく初期段階の「生体様AGI」には関係するかもしれない(が実際のところはなんとも言いがたい)。
上記重要論点の翻訳(英語圏対象)
Now Nietzsche is popular but when the birth of AGI takes on reality, the spotlight will first move from Nietzsche to Kant. For, Kant was talking about "finite intellectuals in general" that passed beyond the superhuman of Nietzsche, which is still human-like. Even if AGI appeared, Kant's finite intellectuals in general would includes it. Rather, from Kantian perspective, "Human-centric" is Meillassoux.
And yet while human beings are struggling with AGI 's "control problem", the validity of Kant 's categorical imperative will still remains worth investigating based on the programming problem of human ethical values. In fact, a method similar to the Kantian method has been seriously examined as a state-of-the-art research hypothesis (eg. CEV:Humanity's "Coherent Extraporated Volition":Yudkowsky) .
Anyway, The story of the birth of Nietzsche 's "superhuman" at least in the form said in "Also sprach Zarathustra " would be irrelevant to the extremely strong AI born as a machine superintelligence. It may be related to the very early stage "biological AGI" based on a transient process by bioengineering intervention, such as "Whole Brain Emulation" although in reality it is hard to say at all.
(仏語圏対象)
Maintenant, Nietzsche est populaire, mais quand la naissance de l'AGI se concrétisera, les projecteurs passeront d'abord de Nietzsche à Kant. Car Kant parlait des «intellectuels finis en général» qui dépassaient le surhumain de Nietzsche, toujours humain. Même si AGI est apparu, les intellectuels finis de Kant en général l'incluraient. Au contraire, du point de vue kantien, "centré sur l'homme" est Meillassoux.
Et pourtant, alors que les êtres humains se débattent avec le «problème de contrôle» de l'AGI, la validité de l'impératif catégorique de Kant vaudra toujours la peine d'être étudiée sur la base du problème de programmation des valeurs éthiques humaines. En fait, une méthode similaire à la méthode kantienne a été sérieusement examinée en tant qu'hypothèse de recherche de pointe (par exemple CEV: "Coherent Extraporated Volition" de l'humanité: Yudkowsky).
Quoi qu'il en soit, l 'histoire de la naissance du "surhumain" de Nietzsche, au moins sous la forme dite "Ainsi parlait Zarathoustra" serait sans rapport avec l' AI extrêmement forte née comme superintelligence de la machine. Cela peut être lié au très précoce «AGI biologique» basé sur un processus transitoire par une intervention de bio-ingénierie, comme «l'émulation du cerveau entier» bien qu'en réalité il soit difficile à dire du tout.
だが、このAGIコントロールの方法論の先行きはさほど明るくはない。スーパーインテリジェンスの「行為」も原則として少なくても萌芽的段階(シードAI)においてはウェーバーの目的合理性または道具的理性のスキームでかろうじて了解可能ではある(はずだ)。しかし、たとえその目的について推測できたとしても、その全ての達成手段については人間には認識不可能(従って予測不可能)であると考えられる。例えばスーパーインテリジェンスが人類の完全支配あるいは実質的な殲滅を達成するプロセスの最初期の一つのシナリオでは、ナノテクノロジー等の先端テクノロジーを制御するための間接的なエージェントとして人間が手段化されると考えられている(これもあくまで現段階の仮説に過ぎない)。
 さらに、AIの言語の問題として最近以下の事実が観測されている。以下に転載する記事だが、人間が勝手に意思を投影したに過ぎないと述べている。しかし対話の過程で生まれた独自言語は理解不能。つまりたとえ理解不能であっても、それが「会話」でありその過程で生まれた「独自言語」であるという解釈は勝手な人間の投影ではないと認めている。過程の一貫性の枠内で整合的に「言語の変容」として「解釈可能」だと。結局AIたちは人間には理解不能な会話をしていたのだ。
以下転載開始
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「「2つのAIが“独自言語”で会話」の真相--FacebookのAI研究開発者が明かす
藤井涼 (編集部) 井口裕右2017年11月16日 07時00分
 2017年夏、Facebookの人工知能(AI)研究組織である「Facebook AI Research(Facebook人工知能研究所)」が行ったある実験が世界中で大きな話題になった。2つのAIで会話実験をしたところ、人間が理解できない言語で会話をしはじめ、実験が強制終了されたという内容で、世界中のメディアが「ついにAIが意思を持ち人間を脅かすのでは」とセンセーショナルに報じたのだ。
 このSFのような事態は本当に起きたのだろうか。Facebook AI Researchのエンジニアリング・マネージャーで、実際にこの実験に関わったアレクサンドル・ルブリュン氏がインタビューの中で質問に答えた。同氏は、報道内容の真偽について「半分は本当で、半分はクレイジーな狂言だ」と回答。そして、研究内容の詳細を明かしてくれた。
ルブリュン氏が手がけた研究では、2つのAIエージェントに「価格を交渉して合意しろ」という目標を設定した。一方は価格を上げたい立場、もう一方は価格を下げたい立場を設定して会話を始めたのだという。こうした複数のAIエージェントを使った実験は、昔からある一般的なもので、この実験ではこの2つのAIエージェントが新たな価格交渉の戦略を生み出すことができるかに注目していたのだそうだ。
この2つのAIエージェントは、使用言語の変更が許されており、当初は英語を使用してコミュニケーションをしていたという。しかし、会話をする中でAIの使用言語が徐々に変化していったのだという。
 ただ、この点についてルブリュン氏は「研究者にとっては驚くことではなく、設定されたゴールに向かってあらゆるものを最適化する(=この場合は言語を変更する)ことは当たり前のこと。こうした会話実験で言語が変化することは、よくあることだ」と話す。言語が変化していくことは研究者にとって想定の範囲内だったということだ。
 そして、“実験が強制終了された”という報道については、ルブリュン氏も実験を中止したことを認めた。その理由については「彼らが交わしている会話が理解できず、それを研究に活用できないものだと判断したからだ。決してパニックになったわけではない」と説明した。つまり、研究所で行われた実験のすべてはプログラムされていたことであり、彼らにとっては予期されたことだったという。
 ではなぜ、まるでAIが独自の意思を持ったかのような解釈がされたのか。ルブリュン氏は「私たちはこのことを説明するための研究成果を公開したが、それを読んだ誰かが“AIが人間に理解されないように独自に言葉を作り出した”と飛躍的な解釈をしたのではないか」との見方を示す。その上で、AIの本質について次のように語った。
 「AIは自分たちで意思や目標を生み出さない。この実験では、人間がプログラムした“AIエージェントの立場に応じた最適な合意にたどり着くこと”という目標だけを持っていた。その過程で言語が変わっていったのは目標のための最適化から生まれたものであって、人間に何かを隠すような意図をもったというのは、全くクレイジーな狂言だといえる」(ルブリュン氏)。
 そして、このような飛躍的な解釈をしてしまう背景として、世の中の人々がAIに対して以下のようなイメージを持っているためではないかと話し、AIという存在を正しく理解すべきだと訴えた。
 「1968年の映画『2001年宇宙の旅』をご覧いただきたい。そこで描かれたAIは、自分の意思を持ち、人間を不要な存在として排除するという判断を自らしている。この映画を見た人は、近い未来にはこのようなAIが登場すると信じてしまっているのかもしれない。しかし、実際にこのようなAIは現れていない。こうした“フィクション”による人々の期待や予想が、AIに対する誤ったイメージを生み出してしまったのではないか」(ルブリュン氏)。」
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以上転載終了
いわゆる「全能エミュレーション」(全脳シミュレーション)の困難さからスーパーインテリジェンス誕生の夢物語性が語られる場合もあるが、ニック・ボストロムによればあくまでもそれは過渡的な方途であり本命は「マシンインテリジェンス」によるものとなる。なお、この困難性だが、「全脳アーキテクチャ 解明ロードマップ(産業技術総合研究所)」(https://staff.aist.go.jp/y-ichisugi/brain-archi/roadmap.html#hippocampus)の一杉裕志氏によれば「(脳に関する現時点での共通理解として)脳についてはすでに膨大な知見があり、脳はとても普通の情報処理装置である。脳は心臓などに比べれば複雑だが意外と単純。すでに全脳シミュレーションは計算量的に可能であり将来は人間よりもコスト安になる」。また「脳の機能の再現に必要な計算パワーはすでにある。脳のアルゴリズムの詳細を解明するヒントとなる膨大な神経科学的知見があるが、それを解釈・統合できる人材が圧倒的に不足」している(これは日本の場合であり例えば中国には圧倒的な人材と資金が存在する)。(補足だが興味深い知見として、一杉氏は「前頭前野周辺の4つの並行した大脳皮質-基底核ループは、階層型強化学習を行っている。前頭前野は、累積報酬期待値の最大化(最適意思決定)を近似計算するだけでなく、近似計算アルゴリズム自体を経験によって学習するのではないか? 」と述べている。)
山極寿一氏(霊長類学者)は「人間の暴力性は共感力の暴発から起こった」と述べている。「共感力の暴発」は自然言語の獲得という契機が決定的なファクターとなる。「暴発」という表現に曖昧さが残るが、だとすれば極めて強い汎用性人工知能すなわちスーパーインテリジェンスが人類を絶滅させるのは粗雑なSFというよりもかなり蓋然性の高い予想ということになるだろう。
つまり、人工知能が人類の生存の根幹に関わる危機 (existential risk) をもたらし得る必要条件(同時に十分条件とはならない)はそれが人間レベルの自然言語能力 (a human level of natural language processing) を持つことである。


スーパーインテリジェンス 超絶 #AI と人類の命運 ニックボストロム著, アマゾンレビュー
永澤 護·2017年12月29日金曜日·2分表示30件
ニック・ボストロムは10数年以上前から主にオックスフォード大学研究所(Future of Humanity Institute)のサイト及び彼自身のサイトの諸論文などで読んでいたとはいえ、本書を原書で初めて読んだときの衝撃は凄いものだった。
それはともかく、レビューとしては申し訳ないのだが、ここで非常に深く多岐にわたる彼の考察を下手にまとめることは躊躇われる。
本書は決して専門筋対象の本ではなく、現存する最も優れた哲学者の一人による、世界的に大変な影響力を一般市民から最先端の開発者にいたるまで及ぼし続けてきた現代人必須の教養書として位置づけられるべきものである。
以下に最重要論点を紹介したい。
ボストロムは、
「このようなマシン(引用者付記:人間の知能を超越したレベルの知能を有するマシン・インテリジェンス)が実現されるのはタイミング的に、人間と同等レベルのマシン・インテリジェンスが実現された瞬時先である可能性がある。」(25頁)
と述べている。
つまり、ニック・ボストロム のいう「スーパーインテリジェンス」は、もし誕生するとすれば、再帰的に自己更新するAIとして誕生し自己を再創造し続けると考えられるため、人間と同等レベルの人工汎用知能が自律的な自己創造=爆発的な進化プロセスに突入してからスーパーインテリジェンスレベルに到達するまでの時間が瞬時の時間である可能性があるということである。もちろんそれが例えばミリセカンド単位なのか数十時間単位なのか我々人間には予測不可能である(そもそもそうしたケースではマシンそれ自体の時空認知フレームが我々人間の時空認知フレームと異なり独立していると考えられる)。
なおここで「人間と同等レベル」とは、「人間の成人と同じレベルで自然言語を理解できる」(45頁)ということである。
蛍の集団における点滅のリズムなど自然界の同期共鳴:シンクロ現象(生命現象に限らない)も、ある時点を境に全く異次元レベルでの高度な同期レベルに相転移的に跳ね上がることが数式レベルで知られてきているが、それと似たような事態が未来のいずれかの時点でスーパーインテリジェンスの誕生という形で生じないと断言することはできないだろう。
もちろんそれ以前に、閉鎖環境下で秘密裏に極めて高度な(完全に汎用的でかつそれを超えたレベルのものではなくても)AI開発に成功したいずれかの国あるいは高レベル組織による「極めてまずい形での単独覇権」の達成という悪夢に対して人類は自己防衛する必要が生じる。(ブロックチェーン技術を使ったAIのネットワーク化を目指す「シンギュラリティネット」で知られるベン・ゲーツェルはスーパインテリジェンスによる人類破局のシナリオなどの「私が乗れない話」に無駄に耽るのではなくむしろそういった現実的な悪の可能性問題に目を向けろよ!とブログポストで述べている。もちろん彼自身の営業的観点からまずいためだが。)
とはいえボストロムは、上記を含めておよそ目配り可能なあらゆる問題に考察の目を光らせている。そして彼が提起する問題の決定版が、
「真に究極的な単独覇権(Singleton)は、いずれかの国家・組織集団あるいはそれらの同盟により占有された汎用性AI の覇権をはるかに超えた、極めて強い人工汎用知能すなわちスーパーインテリジェンスそれ自体によるSingletonになるはずであり、そこにこそ人類自身の存続が懸かっている<実存的・存在論的リスク existential risk>があるのだ。」
という論点なのである。こうした超AIが人間並みのクオリアを含めた「真に総合的な知性」を決して達成できないだろうから超AIの実現可能性やその懸念を考えることが無意味になるのではない。超AIが定義上人間と全く同等な真に総合的な知性など持ち得ないのは当然である。おそらくそのような段階は瞬時にバイパスされるだろう。
コントロール不可能に見える全く別次元の存在者にどう対峙するのかという途轍もなく困難な「AIコントロール問題」に立ち向かうボストロムの姿勢を汲み取ってほしい。
その他の重要論点
①いわゆる「全能エミュレーション」(全脳シミュレーション)の困難さからスーパーインテリジェンス誕生の夢物語性が語られる場合もあるが、ボストロムによればあくまでもそれは過渡的な方途であり本命は「マシンインテリジェンス」によるものとなる。なお、この困難性だが、「全脳アーキテクチャ 解明ロードマップ(産業技術総合研究所)」(https://staff.aist.go.jp/y-ichisu…/brain-archi/roadmap.html…)の一杉裕志氏によれば「(脳に関する現時点での共通理解として)脳についてはすでに膨大な知見があり、脳はとても普通の情報処理装置である。脳は心臓などに比べれば複雑だが意外と単純。すでに全脳シミュレーションは計算量的に可能であり将来は人間よりもコスト安になる」。また「脳の機能の再現に必要な計算パワーはすでにある。脳のアルゴリズムの詳細を解明するヒントとなる膨大な神経科学的知見があるが、それを解釈・統合できる人材が圧倒的に不足」している。(補足だが興味深い知見として、一杉氏は「前頭前野周辺の4つの並行した大脳皮質-基底核ループは、階層型強化学習を行っている。前頭前野は、累積報酬期待値の最大化(最適意思決定)を近似計算するだけでなく、近似計算アルゴリズム自体を経験によって学習するのではないか? 」と述べている。)
②スーパーインテリジェンスの「行為」も原則としてウェーバーの目的合理性または道具的理性のスキームでかろうじて了解可能ではある。しかし、たとえその目的について推測できたとしても、その全ての達成手段については人間には認識不可能(従って予測不可能)であると考えられる。例えばスーパーインテリジェンスが人類の完全支配あるいは実質的な殲滅を達成するプロセスの最初期の一つのシナリオでは、ナノテクノロジー等の先端テクノロジーを制御するための間接的なエージェントとして人間が手段化されると考えられている。
③本書から強く示唆される論点:中国はGoogle(Alphabet)を初めとする全ての欧米IT系企業の関与を主として覇権をめぐる地政学的な理由から閉め出している。従って(真に閉め出し得ているのなら)、競合する全てのエージェントがモニタリング不可能なまま人類史上初の汎用性人工知能の開発に成功する可能性が高い。http://sp.recordchina.co.jp/newsinfo.php?id=184628 において英誌「エコノミスト」は中国の来るべきAI覇権を予測しているが、私見ではこの現実化にとって鍵になるのは人類史上最高の頭脳の一人であったクマラジーヴァ(鳩摩羅什)の中国登場以来のプロジェクトチーム方式による膨大な仏典訳出の伝統であると推測する。
参考1
山極寿一氏(霊長類学者)は「人間の暴力性は共感力の暴発から起こった」と述べている。「共感力の暴発」は自然言語の獲得という契機が決定的なファクターとなる(「ミラーニューロン」などとも関連して)。「暴発」という表現に曖昧さが残るが、だとすれば極めて強い汎用性人工知能すなわちスーパーインテリジェンスが人類を絶滅させるのは粗雑なSFというよりもかなり蓋然性の高い予想ということになるだろう。
つまり、人工知能が人類の生存の根幹に関わる危機(existential risk)をもたらし得る必要条件(同時に十分条件とはならない)はそれが人間レベルの自然言語能力(a human level of natural language processing)を持つことである。
参考2
以下転載
「AI Software Learns to Make AI Software
グーグルがAIの学習を自動化する「自動機械学習」を発表
グーグル等の研究チームは、学習を学ぶソフトウェアが、AIの専門家による仕事の一部を肩代わりできるかもしれない、と考えている。 by Tom Simonite2017.01.19
最前線のAI研究者は今や、自分たちの仕事のうち最も複雑な部分のひとつを、ソフトウェアが学習できること発見した。つまり、機械学習のソフトウェアを設計する仕事だ。ある実験で、グーグルの人工知能研究グループ「Google Brain」の研究者がソフトウェアに機械学習システムを設計させた。ソフトウェアが作った言語処理ソフトの品質を評価したところ、ソフトウェアによる成果物は、人間が設計したソフトウェアの評価を上回ったのだ。
ここ数カ月で、非営利の研究機関であるオープンAI(創設者のひとりはイーロン・マスク)やマサチューセッツ工科大学(MIT)、カリフォルニア大学バークレー校、ディープマインド(グーグルが所有するGoogle Brainとは別の人工知能研究会社)等の研究グループが、学習ソフトに学習ソフトを作らせる研究に進展があったと報告している。
現状、機械学習の技術者は人材が不足しており、企業は高額な給与を払わなければならない。しかし、自己始動型のAI手法が実用化されれば、機械学習ソフトがあらゆる産業に普及するスピードが加速する可能性がある。
Google Brainを率いるジェフ・ディーンは先週、機械学習の技術者の作業の一部は、ソフトウェアに取って代わられるかもしれないと思うに至った。ディーンは「自動機械学習」と名付けた発明について、チームが研究を進める研究手段のうちで最も手応えのあるもののひとつと説明した。
ディーンはカリフォルニア州サンタクララで開催されたAIフロンティア・カンファレンスで「今のところ、問題解決の方法に使えるのは、専門知識とデータ、コンピュータの計算です。機械学習に使われる膨大な数の専門知識の必要性はなくせるでしょうか?」と述べた。
グーグル所有のディープマインドの研究グループの実験でわかったことは、「学習を学ぶ」作業と呼ばれる手法により、機械学習ソフトのパフォーマンスを高めるために、特定のタスクに関して膨大な量のデータを投入する必要を軽減することにもなることだ。
研究者はソフトウェアの能力を試すために、毎回異なるが関連性のある複数の問題、たとえば迷路からの脱出を開発するような学習システムを作らせた。ソフトウェアによる設計には、情報を一般化する能力や、新たなタスクについては通常よりも少ない追加訓練で習得できる能力があった。
学習を学ぶソフトウェアを開発するアイデアは、以前から考えられてきたが、過去の実験では人間の発明を凌ぐ結果は得られなかった。1990年代にこのアイデアの研究を進めたモントリオール大学のヨシュア・ベンジョ教授は「ワクワクします」という。
ベンジョ教授は、現在は当時よりも高い計算性能が入手できるようになり、深層学習(最近のAIの熱狂を作り出している大元だ)の手法が登場したことで、学習を学ぶソフトを開発できるようになったという。しかしベンジョ教授が指摘しているとおり、今のところAIによるソフト開発には強烈な計算性能が欠かせないため、機械学習の技術者の負担が軽くなったり、役割の一部をソフトで置き換えたりできると考えるのは時期尚早だ。
Google Brainの研究者の説明によれば、高性能の画像用プロセッサー800個で作られたソフトは、人間が作ったソフトを凌ぐ画像認識システムを設計した。
MITメディアラボのオトクリスト・グプタ研究員は、状況が変わることを信じている。グプタ研究員とMITのチームは、自分たちの研究(学習ソフトウェアが設計した深層学習システムで、物体認識の標準テストで人間の手で設計されたソフトウェアと同等の品質だった)で使われるソフトウェアをオープンソース化する計画だ。
機械学習モデルの設計や試験に失敗し、イライラしながら何時間も費やしたのが、グプタ研究員がこのプロジェクトに取り組んだきっかけだ。グプタ研究員には、企業や研究者には自動機械学習の実現方法を開発する強い意欲があると考えている。
「データ・サイエンティストが抱える負担を軽減できれば、大きな成果です。そうなれば生産性が上がり、よりよい予測モデルを作り、高いレベルのアイデアを探求できるようになります」」
(https://plus.google.com/s/%23%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B9/posts)
参考3
以下転載
「【悲報】Google DeepMindのAI、「裏切り」の有益性を発見する
2017年2月15日12:13
遠くない将来、私たち人類はAIに裏切られることになるかもしれません。詳細は以下から。
AIが人類に反旗を翻す。「ターミネーター」や「マトリックス」など、これまで繰り返し描かれてきたSFのテーマのひとつです。しかしAIの急速な発達に伴い、現実的な問題として私たち人類の前に立ちはだかる事になるかも知れません。
Google DeepMindが開発したAIの「AlphaGo」は2016年3月に人類最強クラスの棋士イ・セドルさんを4勝1敗で破り、年末には「Master」と称する改良型AlphaGoがネット上の囲碁サイトで並み居る世界のトップ棋士たちを60戦全勝という圧倒的な強さでなぎ倒しました。
謎の囲碁棋士「Master」こと「改良型AlphaGo」、世界のトップ棋士を相手に60戦全勝 | BUZZAP!(バザップ!)
もはや囲碁ですら人類はAIに勝てないというSFじみた世界が既に到来している訳ですが、そんなGoogle DeepMindのAIが「裏切り」の有益性に気付いてしまったという怖いニュースが飛び込んできました。
Google DeepMindの社内研究によると、AIはリソース不足に陥った際には「裏切り」行為を行うことが有益であると判断し、実際にそのように振る舞うとのこと。
Google DeepMindの研究チームは複数のAIがリソースの問題に対して協力的に振る舞うのか、それとも相手を破壊しようと振る舞うのかを調べるために2つの比較的シンプルな状況を構築し、実験を行いました。
最初の実験は「Gathering」と名付けられたもので、赤と青の2つのAIが緑色の「りんご」を限られた空間の中で収穫します。ただし、両AIは相手を一時的に動作不能に追い込むレーザー銃で武装しており、いつでも使用可能です。基本的な戦略としては自分でりんごを総取りするか、半々で分け合うかということになります。
数千回にわたるシミュレーションの結果、りんごが大量に存在している時はAIは平和的かつ協調的でした。しかしりんごが減れば減るほど、どちらのAIもレーザー銃で相手を攻撃して動作不能に追い込もうとすることが判明しました。
そして小さく、あまり「賢くない」AIはどちらかといえば協力的な振る舞いを行っていたものの、恐ろしいことにより複雑で大きなネットワークを持つAIほど相手を裏切り、利己的な振る舞いを実験を通して示したのです。
ふたつ目の実験は「Wolfpack」と呼ばれるもの。赤と青のAIは漠然と「獲物」を狩ることを指示されます。両者は別々に獲物を狩ることもできますが、協力し合った方が獲物を追い詰めることが容易になり、両者にとって有益です。
この実験の結果を見ると、ネットワークが大きなAIにおいては協調的な振る舞いが競争的な振る舞いよりも有益であることをいち早く理解しています。
協調的であることが基本的には有益であることを理解しながらも、いざリソースが不足した時には相手を裏切り、攻撃的な振る舞いを行う。なんだか人類のことを言われているようですが、人類が作り上げたAIも同じ結論に達したと考えると今後のAIの発展が空恐ろしくもなってきます。
2045年頃に起こると言われているシンギュラリティの時、AIたちは人類に対してどのような行動を取るのでしょうか?人類には思いつかない、よりよき問題解決の方法が発見されることはあるのでしょうか?どちらにせよ、その時に決定権が人類にあるかどうかは極めて不透明です。
Google’s “DeepMind_ AI Understands The Benefits Of Betrayal _ IFLScience」
(http://buzzap.jp/news/20170215-google-deepmind-ai-betrayal/)
参考3
「リアリティギャップ」と呼ばれる未解決の問題について
以下転載
「2017.11.16 THU 18:00
その相撲ゲームの人工知能は、「10億回もの対戦」を通じて自らルールを学習する
イーロン・マスクも創設に関わった非営利団体OpenAIは、人工知能が相撲の試合を10億回近く繰り返すことで自力で動きを進化していくコンピューターゲーム「RoboSumo」を製作した。ゲームのルールを知らない人工知能が独力で相撲をマスターするプロセスは、ほかの分野でも応用できる可能性がある。
TEXT BY TOM SIMONITE
TRANSLATION BY MAYUMI HIRAI/GALILEO
WIRED(US)
10月11日(米国時間)にリリースされたシンプルな相撲ゲームは、画像表現が取り立てて素晴らしいものではない。だが、人工知能(AI)ソフトウェアの高度化に貢献する可能性を秘めている。
このゲーム「RoboSumo」の仮想世界で戦うロボットたちを制御しているのは、人間ではなく機械学習ソフトウェアである。そして一般的なゲームのキャラクターとは異なり、このロボットたちは格闘することをプログラミングされていない。試行錯誤しながら競技を「学習」しなければならないのだ。
歩き方すら知らない状態で試合開始
このゲームは、イーロン・マスクも創設にかかわった[日本語版記事]、人工知能研究の非営利団体OpenAIが製作したものだ。目的は、AIシステムを強制的に競わせる[日本語版記事]ことで、その知能を高度化できると示すことにある。
OpenAIの研究者のひとりであるイゴール・モルダッチによると、AIは対戦相手が仕掛けてくる複雑で目まぐるしく変わる状況に立ち向かうことになり、「知能の軍拡競争」のような状況が生まれるという。このことは、学習ソフトウェアがロボットの制御だけでなく、それ以外の現実社会における作業にも価値のある「巧妙なスキル」を習得するのに役立つ可能性がある。
OpenAIの実験では、単純化されたヒト型ロボットが、歩き方さえ知らない状態で競技用のリングに入場する。プログラミングされているのは、試行錯誤を通じて学習する能力と、動き回る方法を学習して相手を倒すという目標だけだ。
10億回に近い実験試合を繰り返したロボットたちは、さまざまな戦略を編み出した。より安定させるために姿勢を低くする、肩透かしを食らわせて相手をリングから落とすなどの戦略だ。研究者たちは、ロボットが競技中に自分の戦略を状況に順応させられるだけでなく、相手が戦法を変えると思われる「時期」の予測まで可能にする新しい学習アルゴリズムを開発した。
最も頻繁に利用されているタイプの機械学習ソフトウェアは、膨大な数のサンプルデータにラベルをつけて処理することによって、新しい技術を身につけるというものだ。これに対してOpenAIのプロジェクトは、こうしたアプローチの限界からAI研究者たちがどのようにして逃れようとしているかを示す一例だ。
これまでの方法は、翻訳や音声認識、顔認識などの分野における最近の急速な進歩に貢献してきた。しかし、家庭用ロボットの制御のように、AIをより広く応用できるようにするための複雑なスキルには向いていない。
より高度なスキルをもつAIを実現する可能性に向けたひとつの鍵となるのが、ソフトウェアが試行錯誤を通じて特定の目標に向けて取り組む「強化学習」だ。ロンドンに拠点を置くAIの新興企業で、グーグルに買収されたディープマインドが、アタリの複数のヴィデオゲームをマスター[日本語版記事]するソフトウェアを開発したときに使われた方法だ。現在は、ロボットに物を拾わせるなど、さらに複雑な問題をソフトウェアに解決させるために利用されている。
OpenAIの研究者たちがRoboSumoを製作したのは、競い合って複雑性が増すことにより、学習の進捗を早めることができる可能性があると考えているからだ。強化学習ソフトウェアにさらに複雑な問題を与えて自力で解決させるよりも、そのほうが効果的なのだという。「ほかの誰かと相互にやり合うときは、相手に適切に対応しなければなりません。そうしなければ負けてしまいます」と、インターンシップ期間中にOpenAIでRoboSumoにかかわったカーネギー・メロン大学の大学院生、マルアン・アルシェディヴァットは述べる。
OpenAIの研究者たちは、こうした考えをクモ型ロボットや、単純なサッカーのPK戦などのほかのゲームでも試している。競い合うAIエージェントを使った取り組みに関する2件の論文とともに、RoboSumoをはじめとするいくつかのゲームと、エキスパートプレイヤーたちのコードが発表されている。
立ちはだかる「リアリティギャップ」
高い知能をもつマシンたちが人間のためにできることとして、相撲の格闘が最も不可欠なものだとは言えないかもしれない。しかし、OpenAIの実験では、ひとつの仮想環境で学習したスキルが。ほかの状況にもち込まれることが示唆されている。
相撲のリングにいたヒト型ロボットを、強い風が吹く仮想の世界に移したところ、ロボットは脚を踏ん張って直立の姿勢を維持した。これはロボットが、一般に通用するやり方で自分の身体とバランスを制御する方法を学習したことを示唆している。
ただし、仮想の世界から現実の世界にスキルをもち込むのは、まったく別の難題だ。テキサス大学オースティン校の教授ピーター・ストーンによると、仮想環境で機能する制御システムを現実世界のロボットに組み込んでも、通常は機能しないという。これは「リアリティギャップ」と呼ばれる未解決の問題だ。
OpenAIでもこの問題に取り組んでいるが、解決策はまだ発表されていない。一方で、OpenAIのモルダッチは、これらの仮想のヒト型ロボットに、単に競い合うことを超えた動因を与えたいと考えている。モルダッチの頭のなかにあるのは、ロボットたちが競い合うだけでなく、協力する必要がある完全なサッカーの試合だ。」
(https://wired.jp/2017/11/16/ai-sumo-wrestlers/)
参考4
以下転載
以下に転載する記事だが、人間が勝手に意思を投影したに過ぎないと述べている。しかし対話の過程で生まれた独自言語は理解不能。つまりたとえ理解不能であっても、それが「会話」でありその過程で生まれた「独自言語」であるという解釈は勝手な人間の投影ではないと認めている。過程の一貫性の枠内で整合的に「言語の変容」として「解釈可能」だと。結局AIたちは人間には理解不能な会話をしていたのだ。
以下転載
「「2つのAIが“独自言語”で会話」の真相--FacebookのAI研究開発者が明かす
藤井涼 (編集部) 井口裕右2017年11月16日 07時00分
2017年夏、Facebookの人工知能(AI)研究組織である「Facebook AI Research(Facebook人工知能研究所)」が行ったある実験が世界中で大きな話題になった。2つのAIで会話実験をしたところ、人間が理解できない言語で会話をしはじめ、実験が強制終了されたという内容で、世界中のメディアが「ついにAIが意思を持ち人間を脅かすのでは」とセンセーショナルに報じたのだ。
 このSFのような事態は本当に起きたのだろうか。Facebook AI Researchのエンジニアリング・マネージャーで、実際にこの実験に関わったアレクサンドル・ルブリュン氏がインタビューの中で質問に答えた。同氏は、報道内容の真偽について「半分は本当で、半分はクレイジーな狂言だ」と回答。そして、研究内容の詳細を明かしてくれた。
ルブリュン氏が手がけた研究では、2つのAIエージェントに「価格を交渉して合意しろ」という目標を設定した。一方は価格を上げたい立場、もう一方は価格を下げたい立場を設定して会話を始めたのだという。こうした複数のAIエージェントを使った実験は、昔からある一般的なもので、この実験ではこの2つのAIエージェントが新たな価格交渉の戦略を生み出すことができるかに注目していたのだそうだ。
この2つのAIエージェントは、使用言語の変更が許されており、当初は英語を使用してコミュニケーションをしていたという。しかし、会話をする中でAIの使用言語が徐々に変化していったのだという。
ただ、この点についてルブリュン氏は「研究者にとっては驚くことではなく、設定されたゴールに向かってあらゆるものを最適化する(=この場合は言語を変更する)ことは当たり前のこと。こうした会話実験で言語が変化することは、よくあることだ」と話す。言語が変化していくことは研究者にとって想定の範囲内だったということだ。
そして、“実験が強制終了された”という報道については、ルブリュン氏も実験を中止したことを認めた。その理由については「彼らが交わしている会話が理解できず、それを研究に活用できないものだと判断したからだ。決してパニックになったわけではない」と説明した。つまり、研究所で行われた実験のすべてはプログラムされていたことであり、彼らにとっては予期されたことだったという。
ではなぜ、まるでAIが独自の意思を持ったかのような解釈がされたのか。ルブリュン氏は「私たちはこのことを説明するための研究成果を公開したが、それを読んだ誰かが“AIが人間に理解されないように独自に言葉を作り出した”と飛躍的な解釈をしたのではないか」との見方を示す。その上で、AIの本質について次のように語った。
「AIは自分たちで意思や目標を生み出さない。この実験では、人間がプログラムした“AIエージェントの立場に応じた最適な合意にたどり着くこと”という目標だけを持っていた。その過程で言語が変わっていったのは目標のための最適化から生まれたものであって、人間に何かを隠すような意図をもったというのは、全くクレイジーな狂言だといえる」(ルブリュン氏)。
そして、このような飛躍的な解釈をしてしまう背景として、世の中の人々がAIに対して以下のようなイメージを持っているためではないかと話し、AIという存在を正しく理解すべきだと訴えた。
「1968年の映画『2001年宇宙の旅』をご覧いただきたい。そこで描かれたAIは、自分の意思を持ち、人間を不要な存在として排除するという判断を自らしている。この映画を見た人は、近い未来にはこのようなAIが登場すると信じてしまっているのかもしれない。しかし、実際にこのようなAIは現れていない。こうした“フィクション”による人々の期待や予想が、AIに対する誤ったイメージを生み出してしまったのではないか」(ルブリュン氏)。」


黒沢 清 CURE
特にこの作品に関しては、不完全な解釈をしても仕方がないので、場面の紹介でレヴューに替えたい。
役所広司演じる刑事が、疲れ切った様子で夜遅く帰宅する。いつものように洗濯機の回る音がする。男は帰宅直後の儀式として洗濯機を止め、洗濯機は軋んだ音を立てて止まる。ダイニングテーブルの上には一皿しかない。皿にはレンジ用プラスチック製の蓋が被さっている。男が蓋を取ると、そこに生肉が姿を現す。その後妻が現れまた洗濯機を回しそれを再び男が止めてダイニングテーブルの椅子に座る。しばらく生肉を眺めていた男は、突然それを取り上げ、思い切り壁に叩きつける。
ラストシーンの直前。刑事はいつものファミレスで、爽快そのものの顔でコーヒーを飲んでいる。萩原聖人が演じる「伝道師」によって無意識の欲望を表出=行動化した彼は、今や完全に癒されている。今や彼は、彼がそこにいるだけで、「伝道師」のように「あんた誰?」と語りかけることすら必要とせず、周囲の者を癒してしまう力を持っている。店内では、一人のウェイトレスが、先輩とおぼしきもう一人のウェイトレスに、多分いつものように叱責されている。辛そうにうつむく彼女。
これに続くラストシーンは(画面を注視する必要がある)、鮮烈な力で観る者を貫く。それと同時に突然終わるこの映像の流れが、果たして「映画」だったのか、それとも何か決して忘れがたい出来事そのものなのか、未だに答はない。私がこの作品と比較できるのは、ファスビンダーの『ケレル』(ジュネの作品の映画化)だけである。

アマゾンレビュー 正法眼蔵全訳注 (講談社学術文庫) 増谷 文雄巻 (二)所収 「古鏡」におけるかなり決定的と思われる誤訳について
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増谷氏は、228頁から229頁の原文:

「胡漢来現の時節は、古鏡の胡漢を現来せしむるなり。胡漢倶隠ならん時節も、鏡は存取すべきと道得せるは、現にくらく、来におろそかなり。錯乱といふにおよばざるものなり。」

を以下のように現代語訳している。

「もしも、胡人・漢人が来り現われる時には、古鏡が胡人・漢人を来現せしめるのだといったり、あるいは、

胡人・漢人がともに隠れた時にも、古鏡はなお存在しているのだといったりしたのでは、まったく来も現も判ってはいないのであって、錯乱というもなお及ばざるところである。」 232頁

しかしこれは、本来は、

「胡人・漢人が来り現われる時には、古鏡が(の)胡人・漢人を来現せしめるのである。

胡人・漢人がともに隠れた時にも、古鏡はなお存在しているのだといったりしたのでは、まったく来も現も判ってはいないのであって、錯乱というもなお及ばざるところである。」

と訳すべきである。つまり、増谷訳では根底的に文意が真逆になっており、「胡漢来現の時節は、古鏡の胡漢を現来せしむるなり」という核心的な一文が否定され、後続部分との整合性を失い該当する上記の文全体が意味不明になってしまっている。

「胡漢来現」という事態あるいはそういった時間=存在(時節・有時)は「古鏡の存在」という事態(時間=存在)と実践的に一体不可分である。すなわち、「古鏡の存在」ーーそれは「古鏡」巻末に至り「古鏡(瓦)を磨くこと」という果てのない実践の力と等値されるーーと「胡漢の現来(去来)」が一体不可分な実践的時間存在であるという道元の哲学=行(実践)が雲散霧消しているのである。

それにしても、よりにもよって修証一等という道元のすべてを貫くテーマを語るおそらくは正法眼蔵における最重要箇所でなぜこのような事態が生じたのか? 今もって愕然とする。

参考までに、「古鏡」巻の結論的記述の原文と増谷氏の現代語訳を参照した上でのその試訳を下記に記す。『正法眼蔵』の学習のためには、現代語訳(可能なら棚橋一晃氏Kazuaki Tanahashiらの英訳その他の英訳を含む)を参照吟味しながら、各々が自分自身の試訳を積み重ねていくことが大切だと思われる。

原文の一部:
いまの人も、いまの塼を拈じてこころみるべし、さだめて鏡とならん。塼もし鏡とならずは、人ほとけになるべからず。塼を泥団なりとかろしめば、人も泥団なりとかろからん。人もし心あらば、塼も心あるべきなり。たれかしらん、塼来塼現の鏡子あることを。又たれかしらん、鏡来鏡現の鏡子あることを。

試訳:
(今の人も、力を尽くして今の瓦を磨いてみるといいだろう。必ずや鏡となるに違いない。もし瓦が鏡となることができないのなら、人も仏になることはできない。 瓦を泥の塊と軽んずるなら、人も泥の塊に等しきものとなるだろう。人にもし心があるならば、瓦にも心があるはずである。誰が知るだろうか、瓦が来って瓦の現われる鏡のあることを。また誰が知るだろうか、鏡が来って鏡の現れる鏡のあることを。)
――道元『正法眼蔵』「古鏡」


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